2022年11月、アメリカ中を揺るがす、衝撃的な事件が起きました。それが「FTX事件」です。
この事件は、それまで暗号資産に悪い印象を持っていた人たちにとって、「やっぱり暗号資産は危ない」と言う声を後押しする、追い風のような出来事にもなりました。
日本ではあまり報じられなかったこの事件。アメリカでは、世界有数の取引所が、わずか9日間で崩れ落ちたと、大変な騒ぎになりました。それまで暗号資産にまったく興味のなかった人たちまで、この事件の話題で持ちきりになります。アメリカの主要な新聞やテレビ局は、こぞってこのニュースをスクープとして報じ、新聞の一面を飾りました。
でも実は、日本とも縁のある事件なんです。事件の主人公が最初に大金を手にしたのは、日本でした。そして、この取引所の広告には、大谷翔平選手と大坂なおみ選手の姿もありました。もちろん、お二人は、その裏側で起きていたことを何も知りませんでした。
FTX事件。一人の若者と、その周りにいた人たちの物語です。
それでは、一連の事件を、事実に沿ったストーリー仕立てでご紹介しましょう。
まずは、この物語の登場人物をご紹介します。
サム・バンクマン=フリード氏:取引所FTXの創業者。事件の当時30歳。ボサボサの髪に、Tシャツと短パン姿がトレードマークでした。
両親:父ジョセフ・バンクマン氏と、母バーバラ・フリード氏。ともに、アメリカの名門スタンフォード大学の法学部の教授です。
キャロライン・エリソン氏:サム氏のもう一つの会社「アラメダ・リサーチ」の代表。サム氏の恋人でもありました。
そして、物語の舞台となる2つの会社があります。顧客からお金を預かる取引所「FTX」と、そのお金を使って投資をしていた「アラメダ・リサーチ」です。この2つの会社の間で、何が起きていたのか。下の図をご覧ください。
サム氏は、法律の専門家である両親のもとで育ちました。名門MITで物理学を学び、卒業後はウォール街の一流トレーディング会社「ジェーン・ストリート」に入ります。トレーディング会社とは、株や債券などを売り買いして利益を上げる会社のことです。
キャロライン氏と出会ったのも、この会社でした。彼女もまた、スタンフォード大学で数学を学んだ秀才です。
サム氏は、「効果的利他主義」と言う考え方を掲げていました。「できるだけ多く稼いで、そのお金で世界をより良くする」。お金儲けは、寄付のためだと言うのです。この考え方は、のちに彼のイメージを大きく支えることになります。
2017年、サム氏は会社を辞め、自分の会社「アラメダ・リサーチ」を立ち上げます。そして翌年、ジェーン・ストリートで出会ったキャロライン氏も、ここに加わります。のちにサム氏と並んで、この事件で世界中にその名を知られることになる女性です。
彼が最初に大きく稼いだきっかけは、日本でした。2018年の初め、日本ではビットコインの値段が、アメリカより大幅に高くなっていました。アメリカで安く買って、日本で高く売る。こうした、場所による価格の差を利用して稼ぐ取引を「アービトラージ(裁定取引)※」と言います。アラメダ・リサーチは、このアービトラージで、短い間に数十億円を稼いだと言われています。
※アービトラージとは:同じものが、場所によって違う値段で売られているとき、安い場所で買って、高い場所で売り、その差で利益を得る取引のことです。例えば、同じ商品が東京では1,000円、大阪では1,200円で売られていれば、東京で買って大阪で売るだけで、200円の利益になります。
その資金をもとに、2019年、サム氏は取引所FTXを立ち上げました。
FTXの成長は、驚くべき速さでした。
2021年、世界的な投資会社が、次々にFTXにお金を出し始めます。シリコンバレーの名門ベンチャーキャピタル(新しい会社に投資する会社)のセコイア・キャピタル、日本のソフトバンク、シンガポール政府系の投資会社テマセク。投資を受けるたびに、FTXの値打ち(評価額)は跳ね上がり、2022年の初めには約320億ドル、日本円で4兆円を超えるまでになりました。創業から、わずか3年足らずのことです。
セコイア・キャピタルは、サム氏を絶賛する記事を自社のサイトに載せました。その記事には、投資の打ち合わせの最中、彼が裏でゲームをしていたと言うエピソードまで、好意的に紹介されていました。プロの投資家たちでさえ、彼の才能にすっかり惚れ込んでいたのです。
集めたお金で、FTXは一気に名前を広めます。アメリカで最も視聴率の高いスポーツ中継、スーパーボウルでテレビCMを流し、プロバスケットボールの試合会場には「FTXアリーナ」の名前が付けられました。そして、大谷翔平選手や大坂なおみ選手といった、世界的なスター選手たちも、FTXの広告に登場します。
FTXがお二人を起用したのは、誠実な人柄で、世界中から愛され、信頼されているスターだったからでしょう。その信頼を借りて、FTXは自分たちを、安心してお金を預けられる会社に見せていたのです。もちろん、お二人は、FTXの裏側で起きていたことを何も知りませんでした。お二人もまた、FTXを信じた側だったんです。
本社は、カリブ海に浮かぶ島国バハマに移され、サム氏はキャロライン氏ら幹部の仲間たちと、高級マンションで共同生活を送っていました。
メディアも、彼を大いに持ち上げました。
アメリカの経済ニュース専門局CNBCは、彼を特集で何度も取り上げています。ケイト・ルーニー記者が伝えたのは、若くて、ちょっとオタクっぽいけれど、素朴で優しげな、新しい時代の成功者の姿でした。視聴者の多くは、「こんな若者がいるのか」と感心したことでしょう。
経済誌フォーチュンは、彼を表紙に載せ、「次のウォーレン・バフェットか?」と書き立てました。サム氏は政治家に巨額の献金をし、アメリカの議会で証言し、規制当局のトップとも面会します。彼は、「暗号資産業界の、責任ある顔」とまで呼ばれていたんです。
ところが、その裏側で、とんでもないことが起きていました。
ここでも、銀行と比べてみましょう。銀行は、私たちが預けたお金を、別の人に貸し出しています。ただし、それには国の厳しいルールがあり、万が一に備えたお金も持っておかなければなりません。そして、もし銀行が潰れても、預金保険で守られています。
FTXは、「預かったお金には手を付けません」と顧客に約束していました。ところが実際には、顧客から預かったお金が、アラメダ・リサーチにこっそり流されていたのです。アラメダには、FTXから事実上いくらでもお金を引き出せる、特別な扱いが与えられていました。
そのお金は、ほかの会社への投資や、借金の返済、政治献金、そしてバハマの高級物件の購入にまで使われていました。アラメダの代表として、そのお金を動かしていたのが、キャロライン氏でした。
2022年11月2日、暗号資産の専門メディア「コインデスク」が、ある記事を出しました。アラメダ・リサーチの資産の多くが、「FTT」と言う、FTX自身が発行したコインだったと言うのです。
これは言ってみれば、会社の財産のほとんどが、自分の会社の商品券だった、と言うようなものです。その商品券の値打ちが下がれば、財産も一気に消えてしまいます。
4日後、世界最大の取引所バイナンスのトップが、「持っているFTTを売る」と発表しました。これをきっかけに、FTXの顧客が一斉にお金を引き出そうとします。マウントゴックスの時と同じ、取り付け騒ぎです。でも、預かっていたはずのお金は、そこにはありませんでした。
バイナンスは一度はFTXの買収を検討したものの、中身を見てすぐに手を引きます。同じ頃、キャロライン氏はアラメダの社員たちを集め、顧客のお金を使っていたことを、自分もサム氏も知っていたと打ち明けたと報じられています。
そして11月11日、FTXは経営破綻しました。最初の記事が出てから、わずか9日間の出来事でした。顧客のお金のうち、およそ80億ドル、日本円で1兆円を超える額が消えていたのです。
破綻処理のために新しく経営者に就いたジョン・J・レイ3世氏は、かつて大企業エンロンの破綻の後始末も手がけた、その道のベテランです。その彼が、「これほど会社の管理がまったくできていない例は、私の人生で一度も見たことがない」と述べたほどでした。
事件は、暗号資産の世界に大きな怒りを巻き起こしました。
当時、100万人近い登録者を持っていた暗号資産のユーチューバー「ビットボーイ」は、なんとバハマまで飛び、サム氏に直接会おうとしました。それほどまでに、この事件は暗号資産に関わる人たちにとって、許しがたい出来事だったんです。
2022年12月12日、サム氏はバハマで逮捕されます。アメリカの議会で、事件について証言する予定だった日の前日でした。
アメリカに送られたサム氏は、保釈金2億5,000万ドルを積み、カリフォルニアにある両親の家で、外出を禁じられて暮らすことになります。
一方、キャロライン氏は、罪を認め、捜査に協力する道を選びました。
2023年の夏、サム氏は、キャロライン氏が書いた個人的な文章を、アメリカの新聞社に渡します。裁判で証言する予定の相手の評判を落とそうとしたと見なされ、裁判所は保釈を取り消しました。サム氏は、裁判が始まる前から、拘置所に入ることになったのです。
2023年10月、裁判が始まりました。証言台に立ったキャロライン氏は、こう語っています。「サムが、私にこれらの罪を犯すよう指示しました」。かつての恋人が、法廷で彼に向き合った瞬間でした。
2023年11月2日、陪審は、全ての罪で有罪と判断しました。コインデスクの最初の記事から、ちょうど1年後のことです。そして2024年3月、裁判所は禁錮25年の判決を言い渡しました。裁判官は、「彼は一度も、本当の意味で反省の言葉を口にしなかった」と述べています。
キャロライン氏も、捜査への協力が考慮されたうえで、禁錮2年の判決を受けました。
この事件には、もう一つの話があります。
2023年9月、FTXの破綻処理を進める側は、サム氏の両親を訴えました。両親が、会社のお金から1,000万ドルの現金と、バハマにある高級な住宅を受け取っていたと言うのです。さらに、FTXから給料を受け取っていた父親が、その額を上げるよう求めていたとも主張しました。
アメリカのメディアやユーチューバーの中には、「法律の専門家である両親や、周りの大人たちが、若い彼を後ろで動かしていたのではないか」と言う見方を伝えるものもありました。ただ、両親はこうした訴えを「まったくの事実無根だ」と強く否定しており、真相ははっきりしていません。
FTXには、日本法人の「FTXジャパン」もありました。
マウントゴックス事件の後、日本では、取引所は顧客から預かった資産を、会社のお金と分けて管理することが法律で義務づけられていました(マウントゴックス事件はこちら)。そのおかげで、親会社が破綻しても、FTXジャパンの顧客の資産は手元に残っていたんです。
2023年2月、FTXジャパンの顧客は、世界中のFTXの利用者の中で、最初にお金を引き出せるようになりました。マウントゴックス事件の苦い経験から作られた日本のルールが、8年後、日本の利用者を守ったと言う事です。
FTX事件は、マウントゴックス事件と同じ教訓を、より大きな規模で世界に突きつけました。どれほど有名で、どれほど信頼されているように見えても、一つの会社にお金を預けると言う事は、その会社を信じるしかないと言う事です。
世界的な投資家も、テレビも、雑誌も、誰も見抜けなかった。管理者に頼らないはずの暗号資産を、管理者に預ける。その矛盾は、8年経っても、まだ解消されていなかったんです。